ミシマサイコという薬草を知っていますか!
相模原柴胡の会
(Sagamihara Saiko Association)
(いにしえ)より伝わりし「柴胡が原(さいこがはら)」とミシマサイコ!
相模原市域は明治時代以前には相模野台地と云われる広大な原野が広がり、そこにはミシマサイコの群落地が所々に存在して「柴胡が原」と云われ、夏には一面に黄色いミシマサイコの花が咲き、秋には貴重な薬草(根の部分が漢方生薬・柴胡の原料)として採取されていました。
現在では都市化による環境変化により「柴胡が原」と云われるような場所はなくなり、ミシマサイコも絶滅危惧種となって、相模原市及び神奈川県では全く見られなくなってしまいました。 古の 柴胡の原よ 夏の空 (若井)
「相模原柴胡の会」は相模原市においてミシマサイコの育成・栽培を行うとともに、ミシマサイコの啓発普及活動を行っています。
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ミシマサイコ(柴胡)と相模原
相模原市における「ミシマサイコ」1
相模原市内での薬用植物ミシマサイコの自生種
相模原市域には古来より相模野台地と云われる広大な原野があり、江戸時代には周辺の村々(主に相模川や境川沿いに村々が点在していた)の秣場(まぐさば・共用の草刈り場)として利用されていて、そこには自生のミシマサイコの群落地が所々に存在し、「柴胡が原」と云われるほどの景観で、夏には一面に黄色いミシマサイコの花が咲き、秋には貴重な薬草(根の部分が漢方生薬・柴胡の原料)として採取されていました。
「柴胡が原」と云う名称は江戸・天保時代の武士で画家でもある渡辺崋山が厚木への旅で記した「游相日記」に下鶴間にて見た光景をその名で記録しています。
江戸時代の1800年代(江戸時代後期)頃から農民による薬草としての根の採取が多くなり、1900年代(大正・昭和年代)になると都市化が少しづつ始まり、ミシマサイコの自生地が次第に減少して、1950年代(昭和時代・戦後)には都市化と工業用地化や宅地化の進行で自然環境が激変して、相模原市内では自生のミシマサイコはほとんど見られなくなりました。
相模原市内で最後に自生のミシマサイコが見られたのは1955年(昭和30年)頃と云われていて、それ以降は自生のミシマサイコは確認されていません(管理された栽培植物としてのミシマサイコは存在します)。
また、神奈川県においても現在は自生のミシマサイコは確認されていません。
現在では薬用植物ミシマサイコは環境省の絶滅危惧種Ⅱに指定されています。
参考:「柴胡が原」と云われる由来 、  参考:相模国と柴胡
参考:相模原市でのミシマサイコに関する資料
相模原市における「ミシマサイコ」2
1960年代(昭和35年代)に入り、古来よりの郷土の植物として注目を集め始めた相模原のミシマサイコを再発見して栽培・育成する機運が高まり、当時相模原市収入役であった小川通幸氏が中心となり、ミシマシコの再発見を目指して相模原市内を探し回ったが見つからなかったようです。
そこで小川通幸氏は1967年(昭和42年)に知人を通じて八王子自然友の会の菱山忠三郎氏にミシマサイコの探索を依頼した結果、菱山氏は相模原市周辺を探した結果、丹沢山塔ノ岳でミシマサイコの自生地を発見し、種を採取して育て、鉢植えにして20鉢を市役所に寄贈しました。小川氏はこれを市内の鉢植え愛好家各氏に育成を依頼して配布しました。この後、各氏に依頼したミシマサイコからその種を採取して多くの種が確保できたことから、多くの相模原市民にミシマサイコの種を配布して市民の自宅でミシマサイコを栽培・育成してもらうことになり、参加者を募集したところ多くの市民が応募してミシマサイコの栽培・育成に取り組み、ミシマサイコの復活・普及に寄与しましたが、これも時代の流れとともに衰退して、ミシマサイコそのものが相模原市内では話題とならなくなりました。
その後、2004年(平成16年)に当時の小川勇夫市長が市制50周年を記念して、相模原市にゆかりの深い薬草ミシマサイコを復活させたいとの希望により、相模原市内でミシマシコを継続的に育成されていた市民にミシマサイコの苗の寄付を募集したところ、5~6名の方から応募があり、苗の寄付をいただきました。そのミシマサイコの苗を小川市長が市民の有志の方と一緒に相模原麻溝公園に移植されました。この時移植されたミシマサイコが相模原麻溝公園で細々と生き延びてきていました。現在、そのミシマサイコの管理を相模原柴胡の会が行っています。
参考:「柴胡が原」と云われる由来 、  参考:相模国と柴胡
参考:相模原市でのミシマサイコに関する資料
相模原市における「ミシマサイコ」3
金井茂氏(元相原高校教諭)は八王子自然友の会に所属していた当時(1968年)に相模原市に依頼されて柴胡(ミシマサイコまたの名はカマクラサイコ)の探索を行った経緯を会報「多摩の自然・第21号」に詳細に寄稿しています。
相模原の柴胡始末記 「金井 茂」(1968年) 要約
金井茂氏は相原高校在任時より柴胡(ミシマサイコまたの名はカマクラサイコ)に造詣が深いという事から、1967年(昭和42年)相模原市の助役の高橋保氏と収入役の小川通幸氏からミシマサイコ探索の依頼を受け、相談に乗ることになりました。その際、自宅に保存していたミシマサイコの標本(採集場所は橋本の今の小原光学の工場のあたりの平地林の中で採集年月日は昭和9年8月20日)を市役所に持参して市長室に置かれたとのことです。
 さらに見本では物足りないのでぜひとも現物が欲しいとの相模原市の要望で相模原市内をくまなく探し回ったが見つからず、自然植物に造詣の深い八王子自然友の会の「菱山忠三郎」氏に依頼してミシマサイコの大探索を行うことになりました。菱山忠三郎氏は陣馬山あたりを探し回り、「マルバサイコ」と「スズサイコ」は見つけたそうですが、「カマクラサイコ」はついに見つからなかったそうです。
金井茂氏はその後一人で相模原市内を一人で探し回り、ついに「望地河原」で「河原柴胡」が一株だけあるのを見つけたとのことで、さっそく鉢植えにして相模原市役所に届けたとのことです。
その後、菱山忠三郎氏は11月10日に丹沢山塔ノ岳の秦野側の下山道でついに「カマクラサイコ」を23株見つけたとのことで、11日に相模原市役所に持参して頂いた。
相模原市役所にはついに「ミシマサイコ」だけでなく、「マルバサイコ」「スズサイコ」「カワラサイコ」の4種類の「柴胡」が揃った。これを市民に知ってもらうべく、読売新聞に取材を依頼して11月10日号に「相模原市ゆかりの植物・柴胡」という記事が出ました。
さらに11月20日の市民文化祭に助役の高橋保氏と収入役の小川通幸氏の肝煎りで「柴胡の展示会」が開かれ、多くの市民にミシマサイコの周知が出来たとのことでした。
転載:屋根のない博物館ホームページ より
詳細はこちらへ
相模原市における「ミシマサイコ」4
橋本五差路付近は、昔相模野七か村の入会秣場(まぐさば:馬の飼料や畑の元肥にする草刈り場)として、領主が所有支配したところで、草地の中には柴胡が繁殖していたという。柴胡は一名「のぜり」と云い、根幹が解熱剤として活用され、相模野産柴胡が朝廷に貢献されたという伝承もあり、「柴胡の原」とも呼ばれて古書にもとどめられています。
昭和の中頃までは橋本五差路付近一帯は平地林だったようで柴胡も自生していたようですが、昭和35年(1960年)には一帯が工業用地化(セントラル自動車や日金工等の工場建設)されて、自生の柴胡はなくなったようです。
その時代には相模原市内全体でも同じような状況で、自生の柴胡は次第に見られなくなってしまったようです。これも社会全体の発展と市民生活の向上と云う果実を得るためには止むを得なかった状況だと思われます。
参考及び転載図書(一部転載させて頂きました)
「橋本の昔話」 昭和60年(1985年) 著作者:加藤重夫
「橋本郷土研究会資料」 平成1年(1989年) 著作者:橋本の歴史を知る会
相模原市における「ミシマサイコ」5
相模原市では2005年(平成17年)に 北里大学薬学部と事業連携の協定 を結び、相模原市内での薬用植物ミシマサイコ栽培農業の実用化の実験モデルとして「サテライト型モデル実験園」を開設して、北里大学薬学部(当時の担当教授は吉川教授)が主体となって相模原市下溝・磯部地区に実験園を開設して実験栽培に取り組みました。
薬草ミシマサイコは古来より相模原地域に自生していて「柴胡が原」と云われるほど繁茂していた地域であり、その漢方生薬として利用される「ミシマサイコの根」は江戸時代にはかなり良品として取引されていたと云われており、土壌的にミシマサイコの栽培に適していると思われます。北里大学薬学部のミシマサイコ栽培実験園での3年間の栽培結果はミシマサイコの成長はかなり良好で、漢方生薬として利用できるその根は日本の他の地域で栽培されているミシマサイコの根と比べても、見劣りしない以上のものが栽培できることが実証されました。
しかし、実験栽培では良好な結果が得られましたが、諸般の事情により栽培農業の実用化までには至りませんでした。
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相模原市内のミシマサイコ栽培場所 (①~③は数字をクリックすると写真が開きます)
① 麻溝公園・柴胡花壇
柴胡花壇は花の谷区域にあります、柴胡案内板設置
② 下溝石碑前・柴胡花壇
南区下溝3256-9の県道52号線の柴胡が原陸橋近辺・貯水池前、柴胡案内板設置
③ モナの丘・柴胡育成園
南区下溝4390にあるモナの丘・レストラン前、柴胡案内板設置
④ 柴環境情報センター
センター敷地内の大型プランターにミシマサイコを植栽、柴胡案内板設置
⑤ 相模台公民館
公民館の敷地内にミシマサイコを植栽
⑥ 星ヶ丘公民館
公民館の敷地内にミシマサイコを植栽
⑦ 大沼公民館
公民館の敷地内にミシマサイコを植栽
⑧ 清新小学校(非公開)
小学校の敷地内にミシマサイコを植栽(但し、非公開です)
⑨ 日本ゼトック(非公開)
会社の敷地内にミシマサイコを植栽(但し、非公開です)
麻溝公園柴胡花壇下溝石碑前柴胡花壇モナの丘柴胡育成園
相模原市内の柴胡ゆかりのもの (数字をクリックすると写真が開きます)
① 松尾芭蕉句碑1
緑区下九沢にある芭蕉句碑「陽炎や柴胡の原の薄曇り」
② 松尾芭蕉句碑2
中央区横山の横山公園にある芭蕉句碑「陽炎や柴胡の原の薄曇り」
③ 芭蕉句碑3(柴胡命名碑)
南区下溝にある柴胡陸橋命名碑に記されている「陽炎や柴胡の糸の薄曇り」
④ 柴胡が原霊園
相模原市中央区南橋本にある市営霊園(墓所)
⑤ 柴胡が原陸橋
県道52号線の南区下溝地区に架かる陸橋
⑥ 柴胡デザインタイル
中央区中央のリバティ通り歩道にある柴胡デザインタイル
⑦ 相模原市民の歌
相模原市民の歌の一節に歌われている
⑧ 旭中学校 校歌
旭中学校の校歌の一節に歌われている
⑨ 清新小学校 校歌
清新小学校の一節に歌われている
松尾芭蕉句碑・下九沢小泉家松尾芭蕉句碑・下溝柴胡花壇松尾芭蕉句碑・横山公園柴胡が原霊園・南橋本柴胡デザインタイル・中央区歩道柴胡が原陸橋・県道52号線相模原市民の歌・歌詞相模原市立旭中学校 校歌相模原市立清新小学校 校歌
相模原市民の歌
相模原市で制定された「相模原市民の歌」には古より伝わる「柴胡の原」の言葉が歌詞の冒頭に取り入れられています。
その市民の歌は元光明学園高校教諭の植村英輔先生が作詞され、作曲家の平井康三郎が作曲して制作され、1958年(昭和33年)1月15日の成人式で発表されました。
相模原市民にはあまり知られていませんが、このような歌がある事を再認識いて頂けたらと思います。
また、市民の歌以外にも緑区橋本地区にある旭中学校の校歌や中央区清新地区にある清新小学校の校歌にも「柴胡の原」と云う言葉が取り入れられています。
相模原市にある松尾芭蕉の柴胡に関する句碑
相模原市には柴胡を詠んだ松尾芭蕉の句碑が3ヵ所あり、「陽炎や柴胡の糸の薄曇り」と「陽炎や柴胡の原の薄曇り」との2種類があります。
松尾芭蕉は江戸時代の俳人で1644年(寛永21年)に伊賀で生れ、45歳の時に彼の崇拝する「西行」の500回忌に合わせ、「奥の細道」の旅へ出かけ、その翌年に「陽炎や柴胡の糸の薄曇り」の句を詠み、その翌年に発行した句集「猿蓑」にこの句を掲載しています。
「陽炎や柴胡の糸の薄曇り」
しかし、相模原市にある句碑のうち2つの句碑の文は以下のようになっています。
「陽炎や柴胡の原の薄曇り」
なぜ、「柴胡の糸」が「柴胡の原」になっているのでしょうか?
「陽炎や柴胡の原の薄曇り」の句は1740年(元文4年)(芭蕉没後46年)に華雀が編纂した「芭蕉句選」にこの句が掲載されています。これが「柴胡の糸」ではなく「柴胡の原」となっている一番古い記載のようです。
「柴胡の糸」が「柴胡の原」に誤記された原因としては松尾芭蕉が書いたくずし文字の「糸」を編者が「原」と読み違えたと考える解釈が有力です。
これが元になって相模原市にある「柴胡の原」の芭蕉句碑は建てられたものと思われます。
相模原市にある芭蕉の句碑で一番古いものは下九沢の小泉家の芭蕉句碑で法師流俳諧の俳人利角「小泉茂兵衛幸隆」が建てたものです。
当時相模原地域では、江戸文化の流入により、芭蕉の流れを受けた俳諧が流布しており、利角もその一人でした。
句碑は、高さ100cm、幅60cmで、正面に松尾芭蕉の句「陽炎や柴胡の原の薄曇」、背面に「利角建之」と刻まれています。
当初はJR南橋本駅付近に建てられ、芭蕉塚と称していましたが、1869年(明治2年)に小泉家に移設されたとされています。
この句碑は相模原市登録文化財に指定されています。
登録番号42 名称 下九沢小泉家の芭蕉句碑
転載:相模原市ホームページ相模原市登録文化財より
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相模原市でのミシマサイコに関する資料
「相模原市史 第一巻」第三章平安時代の相模原 柴胡の原(1964年)
本市域の中央に横たわる相模野は、古くより「柴胡の原」と呼ばれ、柴胡の名産地として朝廷へも貢納してきたという伝承がある。このことのもっとも根拠とすべき文献はといえば、延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の項よりないわけであるが、その相模国のところには柴胡の名は見えない。ただ新編相模風土記稿には、総説物産の部の柴胡の項に「大住郡東西田原村・足柄上郡虫沢・矢倉沢・三山竹三村・同下郡久野・底倉二村・高座郡亀井野村等に産せり。是を鎌倉柴胡といふ。また三浦郡城ケ島にも産せしことありと云ふ」とあって、相模からも産したことにはなっているが、それもだいたい南部に偏し、相模野からでたことにはなっていない。
相模野を柴胡の原と呼んだという諸例は、みな江戸時代の文化文政年代以降の幕末で、それ以前の文献はいまのところ見られない。想うに相模野を柴胡の原とよんだことは、比較的新しい時代、それも俳諧などに多く用いられたもので、古くはそうよんだことはなかったのではあるまいか。現在相模野からは柴胡を見つけだすことはきわめてまれで、採集することはほとんど困難な状態になっている。
転載:相模原市史 第一巻 第三章平安時代の相模原 より転載させて頂きました。
「相模原市史 第二巻」第二章近世中期の相模原 柴胡の原(1967年)
相模野台地の入会の萱場の中にいくらかの雑木は生えていたが、野火のために生長せず、燃料にするのがせいぜいであった。用材に供し得る山林は境川段丘と横山段丘付近のみであった。
この相模野入会の特産ともいわれそうなものに柴胡がある。古くから朝廷へも貢納して一名柴胡の原と呼ぱれたという伝承もある。しかし典拠ともすべき延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の相模国の項には柴胡の名は出ていない。
したがって貢納してきたという点については疑問はあるが、近世にいたっては一部農民がこれを採掘し、生活の資に供したことは事実のようである。
天保8年(1837年)の高橋道格の覚書にも、享保年中に原中に新開家が一軒出来、柴胡・前胡・半夏生などの薬草を採って生活していたが、特に柴胡は鎌倉柴胡と称して、この野に産したものはとりわけ性能がよく、唐の銀柴胡にも匹敵すべきものであった。毎年金拾両ばかりにもなると記している(上溝小山栄一家文書)。
また天保13年(1842年)下溝村鳥山大久保領名主十郎兵衛から道中奉行に願い出た甲州道中与瀬・小原両宿代加助郷免除願の中にも、下溝村は田方は天水場で地味が悪いので金肥を用いてもその効がなく、畑方もその丹誠にくらべてみのりはきわめて薄い。そこへもってきて諸役が多いので、夫食にも差支える始末、なお近年の飢饉では世間一統のこととはいいながら百姓の困窮は甚だしく、退転百姓もできて人少なのため荒地もできる状態である。
それらの困難を堪えしのぐため「夏は右様蚕仕り、冬は株野へ出で茅苅りいたし、女子どもは柴胡を掘り、御年貢または暮らし方の足し合いに仕り云々」(下溝福田為一郎家文書)とある。
その後文久2年(1861年)大島村以下六ヵ村の名主たちが、道中奉行あてに出した東海道戸塚・藤沢両宿助郷免除願にも、各村々の困窮状態を述べている中に、下壽村のところで、前文書とおなじく女子どもに柴胡掘りをさせて、貧窮生活の足し前にしていると述べている(藤沢佐藤条次家文書)。
これを立証するように下溝西堀の井上福三郎氏方にはいまに「せいこのみ」(柴湖のみ)を蔵している。全長84センチ・刃先20センチ・刃幅2.5センチで、山芋掘りののみと類似している。
以上により近世末期にこの地方では、冬季に相模野で柴胡を掘って生活の一助としたことは罹かであるが、その明確な生産高ははっきりしない。
天保14年(1843年)の「万相場割控覚帳」には柴胡の相場が出ている。
1 柴胡 壱貫五百目 壱斤銀壱匁かへ 代 六百七拾七文
1 さいこ 弐貫三百七拾目 壱斤八拾五文替 代八百三拾八文」 (大沼中里博家文書)
この漢字の「柴胡」と仮名書の「さいこ」との区別がいかなる差違を示すものか不明であり、また相模野の「柴胡」が実際に高橋道格覚書にある鎌倉柴胡であったかどうかということもいまとなっては不明である。
いずれにしろ現在開発し残された相模野の一部をたずねて見ても柴胡を採集することは困難な状態にあるため、その実態の検討はほとんど不可能に近い。
転載:相模原市史 第二巻 第二章近世中期の相模原 より転載させて頂きました。
相模原の柴胡始末記「金井 茂」(1968年)
金井茂氏(元相原高校教諭)は八王子自然友の会に所属していた当時(1968年)に相模原市に依頼されて柴胡(ミシマサイコまたの名はカマクラサイコ)の探索を行った経緯を会報「多摩の自然・第21号」に詳細に寄稿しています。
八王子自然友の会・会報・多摩の自然(第21号)(1968年6月)
②相模原と紫胡
江戸の植物といえば「江戸むらさき」即ち武蔵野の広野に生える「むらさき草」であり、これは古来あまりに有名である。江戸名物、武蔵野名物むらさき草といえば「花はどんなであるか」「美しい草か」とすぐに質問が来るが、相模原の人達からも「花の美しさ」や「姿の美しさ」を質問される。
私は云う「名前の方が先き走ってしまって花や姿もそれにふさわしいものと思うでしょうが、本物は極めて平凡な姿です」と。
「かまくらさいこ」は「解熱剤」として利用されたようで、根部を主として使用した。古い俳句に「村雨を背中に受けて紫胡掘り」というのがあるというが、これはどこで紫胡の掘り取りをやって居る情景を読んだものか知らないが、昔は相模野でも盛んに紫胡掘りをやったらしい。相模原市史編集が始まった折、市内で史料編集をやったら、麻溝地区の掘之内部落辺から「紫胡掘り」に利用した道具が発見された。土地の人は「せいこ掘り」と称しているが丁度柄付の「山芋掘り」の道具の様な形である。
こんな相模原と伺縁浅からぬ「さいこ」であるが近頃相模原市もすっかり平地林や山林が開発されてしまって、住宅も建て込んで来てしまったので、もう容易に「紫胡」の姿を見つけることは出来ない。市民の中でも、この植物の姿を知る人は少ないのである。
多摩の自然(第21号)
③さいこ探し
読売新聞の「相模の動植物」が話題として取りあげて来始めると「君さいこを採った事があるか」とか「標本を見たいが」「相模原のどこへ行ったらとれるか」と小生の顔を見ると聞いてくる人もあった。
始めのうちは「何のために」たずねるのか知らなかったが、後になると市役所首脳部の方々がこの植物を探し出すのに骨折っているのだということを知った。そんな質問に小生は答えた「相模原中を探したら或は有るかも知れない、また無いかも知れない。今すぐ出かけて行ってすぐ見つかるかも知れない。あるいは三日探しても四日探しても見つからぬかも知れない。私も近頃は相模原中を採集して歩かないので、しばらく留守していたので保証することは出来ない。
かつてここいら近辺を歩いて採集した植物標本は全部相原高校生物標本室に置いて来てしまった。それにそれは「古くなって虫がくってしまったでしょう」とどうも冷淡な回答だがこうするより外なかった。
もう相模原市内に残る山林を歩いても「かまくらさいこ」の姿を見つけることは出来まい。昭和三十年頃まだ橋本の山林の中に大砲弾なぞがすててあって終戦の姿が残っていた頃その山林内で植物採集をした時「まるばさいこ」の株を見つけた事があってそれを根掘りして相原高校の薬草見本園の片すみに植付けたことがあるのを思い出すが、比較的多かった「まるばさいこ」すらも容易に見付出すことが出来ない程、相模原の平地林も切り開かれ、大きく変って市街地化してしまったのである。
こんなわけで「かまくらさいこ」の姿も見つけるに困難になってしまったので、そこで素人は次の様な疑問をもつのである。
①昔は貢物に出したという程多かったものならば今でも多少は残っていてもよいはずである。
②残っていないところを見ると昔から多くなくて、むしろ栽培していて、それを出したのではないか。
③開発位の環境の変化で、すっかり無くなって了うものか。即ち絶滅の原因は人が多く取り過ぎた為か、環境の変化に応じられない程、この植物は弱いものか。
④栽培品を出したものならば、この植物は栽培に耐え得るものなのか。
等々色々考えさせられるが、―よく人にきかれるがこれには私も答えることが出来ない。
相模原市の助役高橋保氏はかつて、お若い頃から植物に特に関心をもって居られ、平塚農学校できたえた腕で数々の植物をこなされて、菊栽培なんぞは堂に入った名人。最近は自分の屋敷を市のために役立てたいと、広面債に「カンナ」を植込んで、自から手入され、その苗を無償提供して、市の主要道側に植えこんで「花の相模原市」を建設するのだと、やっていられる。
多摩の自然(第21号)
助役のこの美挙が最近の新聞面に掲載されて「花の助役」と市民だれからも讃えられたのである。
また、収入役小川通幸氏も高橋助役にまけない植物専門家で、相原農蚕学校から農業教育専門学校と植物に縁の近い勉強をされたので満州国に赴任し、校長になると「通化省の植物」なんぞという「足で探した満州植物採集記」なんぞを母校「農蚕新聞」にのせる程、この方面に筋金が入っているのである。
このお二人が先に立って「相模原のさいこ」を新聞に出して「市民にこの植物を知って貰おう」と「柴胡探し」を始められたのである。その「紫胡探し」をするから「出て来い」と小川氏から知らせがあったので一日市役所に出向いて色々とお話したが、結局筆者が「八王子自然友の会」の紹介をし、高尾山や陣馬山或は丹沢山あたりを探すに当って、この会の幹事である菱山さんや畦上さん等の御協力を願ったならば、これ等の篤学者はそれ等の山々の一木一草の分布を熟知していられるので、或は「生きた標本」が得られるのではないかと相談し、その場で八王子高校に電話し、菱山忠三郎氏の御出馬御協力を得ることになったのである。
筆者は家に帰り今は散失して数少くなったが、残っている標本の中に若しや「かまくらさいこ」の標本がないかと標本保存箱を探したら幸なことにその中に「たしかに」有ったのである。それについても随分古く、そうしてなつかしいものである。標本の名箋を見ると、「探集場所…相原村橋本の平地林」とあり「採集年月日…昭和九年八月二十日」とある。思えば相模原が町でも、市でもなく個々ばらばらだった相原村の時代。そうして橋本の今の小原光学の工場のあるあたりの平地林の中。そこで採取した標本だった。
これがあったので「鬼の首」でもとった気で翌日、市役所に持参して、読売の記者さんに「標本が見つかりこれでいいだろう」と申上げると、どうも標本では「物のやくにたたず」新聞に出すためには「生き生き」としたものを欲しいということで、どうしても「生きた実物」を欲しいし、どうしてもそれを探し出さなければならないことになったのである。
しかし筆者の古い標本でも、けっこう「御やくに立った」のである。先ず第一に「かまくらさいこ」について絵だけで見ていた人に標本を見せることが出来たこと、「これが紫胡」か、と随分多くの人が私の標本に見入ってくれた。第二に「この植物がたしかに以前はこの原に有った」という証明になった。
市長さんは「この標本によって皆様に紫胡を見ていただこう」と市長室に没収されて「宣伝用」に使用されるとかで、「たった一枚だけ」の私にとっても貴重で手元に留め置きたいのは山々であるが「御奉公」の為に差出す事にした。
先ずこんなにして数回小川収入役のもとに参上して、「八王子自然友の会」と連絡出来て、いよいよ「さいこ探し」に出かける場合、いかなる陣容で、どんなものを用意して、出かけようか等、出動準備を計画していたがーー計らずも紫胡をついに得ることが出来た。
九月二十七日、八王子自然友の会の菱山忠三郎氏から小川収入役の所に電話があったのである。「陣馬山で紫胡が見つかったので採集し、自宅に保存してあるので、自宅に来るように」と、まったく有難いお話である。やっかいな事を御依頼申上げて申訳ないと思っていたが、それをいとわずわざわざ採集までして下さるとは、まったく余人には出来ない話で、まったく御親切で、学問に御熱心な菱山さんでなければ出来ない話である。
さっそく当日、市から車を都合していただいて小川氏。赤間読売新聞記者、NHKの白石氏。それと車運転の大口善治氏、紫胡庵がお伴で一行五名で恩方に出かけたのである。菱山家は恩方の旧家名家である。流石に、お住居はお広い。その広いお庭に菱山忠三郎氏お手のものの、山草、野草がーぱい植込れている。さながらお庭が、珍草、名草團である。氏はそれを指示されて「この草はどの山でとって来た」とか「この草は珍らしい草だ」等々と一々説明して下さる。筆者も「名前だけは知っていて是非実物におめにかかりたい」とかねて思っていた草のいくつかに、はからずもここでお目にかかることが出来たような草もあって、まったく一同菱山氏の「御熱心」と「篤学」とに深く敬意を表すると共に[よいもの]を拝見出来たことを喜んだ。
お庭には「ほたるさいこ」や「すずさいこ」が数株すでに植付られていた。赤間さんは大変よろこんでこれを盛んにフイルムにおさめた。やがて菱山氏は鉢植植物数鉢を出された。まるばさいこ二鉢、すずさいこ二鉢ある。かまくらさいこはいくら探しても、この付近では見つからなかった。まことに残念だったが、これは更に探しましょうが、これだけ相模原市に寄附するからおもち帰り下さい」と、まったく「たなぼた式」のお言葉で、探していただいたり、実物をいただいたり、まったく御厚志ありかたく頂戴した態になって一同恐縮した次第だった。
客室に招待され、茶菓までいただいて、更に「紫胡について」実物を前に色々菱山氏のお話を承ることも出来てすっかり菱山家のお世話になって相模原に引上げたのである。
「鉢植」が来ると[実物が来た]というわけでこれを大切に高橋助役さんが管理されることになり.毎日水をやったり、日に当てたり大変なことになったがーー流石に相模原の人達に関心をもたれている草だけあって.助役室は「紫胡訪問客」で連日大変な「にぎやかさ」であったという。
こうして「まるばさいこ」と「すずさいこ」が相模原市にデビューして呉れたが、かんじんの本尊様、大立物の「かまくらさいこ」はまだ来ていない、これをどうするか、どこか捜索に出かけようと話し合っていたがーーまだ「さいこ」には「かわらさいこ」なんぞというのもある。これを一つ小生の力で探し出そうと、決心して「水郷田名」の相模川に出かけ「河原」を探し廻った「高田橋付近」を探したり、「火の坂」下の田圃道を探したり半日を費したが得る所はなかったのである。
「河原紫胡」は河原という名があるが、河原ばかりでなく橋本の原っぱにも姿を見たことがある。山にも原にも出ている草だが、「やっぱり必要で探す時には」なかなか見つけ出せないものだ。世の中の万事がすべてそうだが、「儘ならぬが浮世の常か」。久所(水郷田名)の河原で見つけ得られず、まことに残念だ。しかし「必ず筆者の手で」という意気込で、更に二、三日して筆者の生家に近い「望地河原」に出かけて午后たっぷり半日を費して探した。
そうしたら「神も見捨て給わず」か夕刻近く大きな株つ、一株があったのである。さっそく鉢植にして翌日市役所に持参に及んだ。
十月十一日。この日とうとう菱山氏が「かまくらさいこ」を市役所に持参して呉れたのである。筆者が「かわらさいこ」を市役所に持参した翌日であった。
菱山忠三郎氏は折角相模原市で期待しているのだから是非というわけで隨分「探す」にお骨折をされたようだ。近所にないので丹沢山に遠征され、ヤビツ峠あたりから登山され、とうが岳あたりまで廻って一日苦心され、探しても探しても求めることが出来ず。夕方になるし、あきらめて泰野側に下山しようとされたその時「かまくらさいこ」の二三株が見つかったのだそうだ。しかもそのそばには「武蔵野名草むらさき」の群落まで添えて。「本物の紫胡が見つかった時は随分うれしかったよ」と菱山氏が語られたが、まったく相模原市のために大きな御骨折をおかけ致した次第でつくづく有難くなる。
とうとうおかげで市役所に「かまくらさいこ」「まるばさいこ」「すずさいこ」 「かわらさいこ」と「紫胡」と名のつく植物四種の鉢植が揃ったのである。さっそく読売の赤間さんに来ていただいて「かまくらさいこ」の写真をとり、すぐに読売新聞連載の「相模の動植物」に「相模原市ゆかり」の植物として「紫胡」物語を出して貰うことにした。
そうして待っている間、十一月十日の読売新聞にとうとう出たのである。市民のだれも、かも、筆者の顔を見るなり「紫胡が出たな」と云って呉れる。まったく嬉しかった。十一月十九日には更に読売紙上に「まぼろもの草紫胡、丹沢山中で発見」と菱山氏の苦心を出して呉れた。
こうしておかげで市民の頭に紫胡なる草が相当に僥きつけられたのである。菱山さん「有難う」。
十一月二十日、三十日は「市文化行事期間」として数々の行事が開催されたがその会場に当てられた市民会館で高橋助役、小川収入役等の肝煎で「紫胡の展示会」が開かれたのである。四種の鉢植を揃えて市民に充分に見ていただく事にしたのである。筆者は一生懸命「紫胡説明書」を作って来観者にくばった。
この展示会はまことに盛況であったが、これですっかり「紫胡」というものを市民が認識したらしい。これが終って、あとは鉢植を高橋助役氏が保存して呉れることになったが、来春には目出度く新しい芽ぶきを見ることが出来るかどうか。(筆者はまだ紫胡を鉢植にして越參させたことがないので来春に芽吹するかどうかいまだ不知である)。
長々と「紫胡」の事を書いたが、以上のような結果で「さいこ」が始末出来たのである。それにつけても八王子自然友の会の皆様方の「御熱心さ」「実力の豊富さ」「篤学さ」には頭がさがるのである。その面目を遺憾なく発揮されてお骨折下された菱山忠三郎氏には万腔の感謝をささげる次第である。
転載:八王子自然友の会・会報・多摩の自然(第21号)(1968年6月) より転載させて頂きました。
順調に育つミシマサイコ「小川通幸」(1971年)
相模野の特産といわれ、薬草として堀って農民の生活の一助となり、また幕府に貢献されたといふ「柴胡」は現在相模原の山野には見当らない。 金井茂氏が昭和10年頃相原高佼の東側、今の日本金属工業会社附近で採集された、みしまさいこ、が市長室に掲げてある。
私は昭和42年9月菱山忠三郎氏(八王子市上恩方町616)にさいこの採集を懇願した。植物採集に経験豊富な菱山氏は峯の薬師で、「まるぱさいこ」「ずずさいこ」を、丹沢山塔ヶ岳附近で「みしまさいこ」を採集して鉢植にして市に寄贈された。これを11月の市民文化祭にて市民会館で展示し、市民に公開した。
峯山氏は丹沢山で発見した、みしまさいこの種子を翌春鉢播きされた。熱心な管理によって育った苗20鉢を私が戴いた。越冬を相原高校の峯尾先生にお頼し、今春はすぐすぐと生長をはじめたので次の方々にも分譲し、増殖をお頴いした。 相原高校峯尾先生 他12名
根は薬用人参のように肥えて数年もすれば、昔献上した「柴胡」が堀り採れるのではないか、花は人参のように咲く、採種して増殖することを楽しみにして管理につとめてゐる。 (椙模原市収入役)
転載:郷土相模原 復刊第一号 より転載させて頂きました。
参考:相模原市におけるミシマサイコ2 、  参考:相模原市におけるミシマサイコ4
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相模原柴胡の会が管理しているミシマサイコの由来
相模原市内で最後に自生のミシマシコが見られたのは1955年(昭和30年)頃までで、それ以降は自生のミシマサイコは確認されていません。現在では薬用植物ミシマサイコの自生種は絶滅危惧種Ⅱに指定されています。
相模原市では1967年(昭和42年)にミシマサイコの探索を専門家に依頼して行い、丹沢・塔ノ岳でミシマサイコの自生種を発見してその種を採取して持ち帰りました。その種からミシマサイコを栽培しましたが、時代の流れとともに廃れてきました。相模原市では2004年(平成17年)に当時の小川市長がそのミシマサイコの子孫を相模原麻溝公園に移植され、相模原麻溝公園で細々と管理されることになりました。
相模原柴胡の会では2017年(平成29年)からその管理の委託を受けて、ミシマサイコの育成・栽培に努め、その種を採取してミシマサイコの増殖に励んで、栽培場所を増やしてきました。
 このように相模原柴胡の会で管理している柴胡花壇のミシマサイコは昔、「柴胡が原」と云われていた相模野台地近辺の山地に自生していた野生種の種から歴史的経過を経て継続して育成・栽培しているミシマサイコです。 一般に生薬・柴胡の生産栽培用に管理・育成されているミシマサイコではありません。
2020年3月1日掲載 
ミシマサイコの相模原地域ブランド名 「相模原柴胡」 について
相模原柴胡の会では当会が管理している柴胡花壇や柴胡育成園で栽培している
ミシマサイコやそれから採取されたミシマサイコの種及びその種から育成されたミシマサイコを相模原地域ブランド名として以下の名称とすることにしました。
「相模原柴胡」 (読み名 「さがみはらさいこ」)
今後、相模原柴胡の会では相模原市民の皆さんに配布するミシマサイコの苗や種はこの地域ブランド名を付けて配布させていただきます。
市民のみなさまのご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
2020年3月1日掲載 
「ミシマサイコ(三島柴胡)とは」「ミシマサイコ栽培方法」
準備中です。
準備中です。
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「相模原柴胡の会」ホームページ管理者 若井義弘
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