ミシマサイコという薬草を知っていますか!
相模原柴胡の会
(Sagamihara Saiko Association)
(いにしえ)より伝わりし「柴胡が原(さいこがはら)」とミシマサイコ!
相模原市域は明治時代以前には相模野台地と云われる広大な原野が広がり、そこにはミシマサイコの群落地が所々に存在して「柴胡が原」と云われ、夏には一面に黄色いミシマサイコの花が咲き、秋には貴重な薬草(根の部分が漢方生薬・柴胡の原料)として採取されていました。
現在では都市化による環境変化により「柴胡が原」と云われるような場所はなくなり、ミシマサイコも絶滅危惧種となって、相模原市及び神奈川県では全く見られなくなってしまいました。 古の 柴胡の原よ 夏の空 (若井)
「相模原柴胡の会」は相模原市においてミシマサイコの育成・栽培を行うとともに、ミシマサイコの啓発普及活動を行っています。
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柴胡関連史料
相模野が「柴胡が原」と云われた由来
相模川と境川に挟まれた相模原地域を含む相模野台地は江戸時代頃までは人の住まない広大な原野となっていて、周辺の村々(主に相模川や境川沿いに村々が点在していた)の秣場(まぐさば・共用の草刈り場)として利用されていました。
その相模野台地には自生のミシマサイコの群落地が所々に存在し、夏には一面に黄色いミシマサイコの花が咲き、秋には貴重な薬草(根の部分が漢方生薬・柴胡の原料)として採取されていた、と云われています。
「游相日記」(1831年)(天保2年)(渡辺崋山)
江戸時代の後期・天保時代に三河國田原藩の江戸詰め家老であり、画家や蘭学者でもある渡辺崋山(わたなべかざん)が元田原藩藩主三宅康友側室のお銀さんの消息を調べて会うことと大山詣で賑わう厚木の様子を見聞するため、天保2年(1831年)9月に弟子1人を連れて田原藩江戸屋敷から大山街道(矢倉沢往還)を通って現在の大和市(鶴間)、綾瀬市(小園村)、厚木市(厚木)への旅をした時の旅日記として「游相日記」を残しています。
その厚木への旅は大山街道を下り、荏田(現在の横浜市江田)や長津田を経由して相模国に入り、その途中で下鶴間宿の「まんじゅう屋」という旅籠に一泊しました。大山街道沿いにある下鶴間宿の「まんじゅう屋」は現在の大和市下鶴間にあり、跡地には史跡案内板が立てられています。
翌朝、宿を立ち、遠くに丹沢山や津久井の山々を見ながら大山街道を進み、鶴間原に差し掛かると一面に黄色い花の群生地を見つけ、それを「游相日記」の中で以下のように記述しています。
「鶴間原出づ、この原、縦十三里、横一里、柴胡多し。よって、柴胡の原とも呼ぶ。諸山いよいよ近し」
このように渡辺崋山は相模野台地の一角の鶴間原で見かけた一面に黄色い花が咲いている今で云うミシマサイコの群生地を「柴胡の原」と記しています。
この後、渡辺崋山は厚木へ脚を延ばし、早川村で地元の百姓と再婚したお銀さんと再会してその暮らしぶりに驚いたようです。さらに近辺を旅してから、藤沢や浦賀を旅して江戸に帰ったようです。
歴史上、相模野台地に「柴胡の原」と云う言葉が記録されている書物としてはこれが最初のものとなり、ここから相模野台地が「柴胡が原」と呼ばれるようになったものと思われます。
下の写真が渡辺崋山が記した「游相日記」の原文(廿二日 晴 鶴間出づ ~~ )です。
   
   
            お銀さんと会う            下鶴間・まんじゅう屋
出典:国立国会図書館ホームページより
相模原柴胡の会では先般、「柴胡歴史紀行、下鶴間宿を歩く」と題して、下鶴間宿の散策行いました。
「筑井紀行」(1814年)(文化11年)(小山田与清)
江戸後期の国学者である小山田与清(おやまだともきよ)(町田市小山田出身)は小山田の生家を拠点に文化11年(1814年)9月に相州津久井県(現在の相模原市近辺)の様子を見聞するため旅して、紀行文の「筑井紀行」を著しています。
筑井紀行の中で9月29日に淵野辺から鶴間に入って休憩をし、日が暮れてから隣の深見村に至っている途中で、以下のような文を記しています。
「相模の原はたてに七里ぬきに一里に余れる荒野なり。ここかしこにうち群れつゝをとめらが金串もて掘りとるは柴胡なりけり。相模國土産柴胡鎌倉より出づ、最も上品といふはこの原より出せるなり」
この中で、百姓の女房たちが柴胡の根の掘り出しに精を出している様子や柴胡鎌倉より出づと云うのははこの原より出た柴胡である、と記しています。これは淵野辺から鶴間までの間で見た光景であると思われます。
小山田与清は武蔵国多摩郡上小山田村(現・東京都町田市)で生まれる。国学者として古典や有職故実の考証に打ち込み、研究資料や書籍を買い集めて書庫「擁書楼」を作り、国学者の閲覧・貸借に供した。天保2年(1831年)には水戸藩主・徳川斉昭の招聘を受けて小石川の江戸彰考館に出仕して江戸時代後期の国学者に影響を及ぼした。
転載:翻刻 筑井紀行 小山田与清著(発行 町田市立図書館)より転載させて頂きました。
江戸・元禄時代の「相模國(さがみのくに)高座郡(たかくらぐん)」の絵地図
相模野台地とは
相模国高座郡は相模川と境川に挟まれた地域で、日本書紀の相模国に関する記録に登場し、713年の郡名変更命により高座郡(たかくらぐん)の名が定着したとされる。
江戸近傍にある高座郡は多くの村々が江戸幕府領とされたほか、旗本領も多く設けられ、郡全体が非常に複雑な領地体制になっていた。
その高座郡の中央部分には地形が高く台形で広大な原野が広がっていて、相模野台地と呼ばれ、相模川や境川周辺の農村の入会地として利用されていた。江戸時代中期以降になると相模野台地における新田開発が進められ、清兵衛新田などの多くの新田が開発された。
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相模国と柴胡(カマクラサイコ)
「古今要覧稿」 第5巻 草木部(1842年)(天保13年)(屋代弘賢)
古今要覧稿(ここんようらんこう)は江戸時代後期に徳川幕府の命により、屋代弘賢が編纂した類書(今で云うところの百科事典)で、文化7年(1810年)~天保13年(1842年)の長きに渡り編纂を重ねて、天保13年(1842年)に560巻が幕府に献納されました。古今要覧稿(ここんようらんこう)は徳川幕府公式の類書(今で云うところの百科事典)と云えますが、一般庶民には公開されていません。
ところが、天保15年(1844年)の江戸城本丸の火災ですべて焼失してしまったと云われていますが、明治の時代になり明治政府(内務省)が明治13年に市中に保存されていた屋代弘賢の旧蔵本を回収して復元しました。その後、明治38年(1907年)に国書刊行会(明治時代の出版団体 総裁:大隈重信)という団体によって限定出版されました。これが現在残っている古今要覧稿となっています。
屋代弘賢(やしろひろかた)は江戸時代後期の国文学者であり書家で、古今要覧稿の編纂に生涯尽力しました。
徳川幕府公式の類書である古今要覧稿の第5巻草木部の中に「柴胡」についての記述が以下あります。
「のぐさ別名鎌倉柴胡は日本全国で産出されているが、相模鎌倉の産をもって最上とす」と記されています。また、「今その地の産は非常に少なくなっているが、津久井懸の近辺にはまだ多く産する」、「今藥舗(今で云うところの薬局)で三島柴胡と稱するものは東国より出す」などと記述されています。
以下は古今要覧稿第5巻草木部の中にある「柴胡」に関する記述原文の写し(相模原柴胡の会の解読文)です。
注記:本文中の「津久井懸(けん)」とは現代の津久井郡地域の江戸時代における呼称です。
注記:本文中の「東國(あづまのくに)」とは何処でしょうか?
江戸時代の中・後期における「東國(あづまのくに)」は関八州(かんはっしゅう)地域のことを云い、相模國(さがみのくに)もその一つになっています。本文中では柴胡は「津久井懸」あたりで多く産すると記述していますので、筆者が想定している「東國」は相模國、さらに云えば相模國の相模野台地あたりを指していると考えられます。
「東國(あづまのくに)」と云われた関八州(かんはっしゅう)は相模國、武蔵國、下総國、上総國、安房國、常陸國、下野國、上野國で構成されています。 なお、江戸時代後期の東國・関八州は現在の関東地方にあたり、相模國は現在のほぼ神奈川県で、武蔵國は現在の東京都とその周辺県の一部を含みます。
下の写真が「古今要覧稿」の原文(第5巻草木部の柴胡の記述部分)です。
出典:国立国会図書館ホームページより
江戸・元禄時代の「相模國(さがみのくに)高座郡(たかくらぐん)」の絵地図
相模野台地とは
相模国高座郡は相模川と境川に挟まれた地域で、日本書紀の相模国に関する記録に登場し、713年の郡名変更命により高座郡(たかくらぐん)の名が定着したとされる。
江戸近傍にある高座郡は多くの村々が江戸幕府領とされたほか、旗本領も多く設けられ、郡全体が非常に複雑な領地体制になっていた。
その高座郡の中央部分には地形が高く台形で広大な原野が広がっていて、相模野台地と呼ばれ、相模川や境川周辺の農村の入会地として利用されていた。江戸時代中期以降になると相模野台地における新田開発が進められ、清兵衛新田などの多くの新田が開発された。
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漢方生薬「柴胡」に関する古典史料
「神農本草経」(西暦112年頃)
古代中国の神農が著したとされる最も古い中医薬学(本草学)の書物で、植物薬252種、動物薬67種、鉱物薬46種の合計365種に関する効能と使用方法が記載されている。薬性により上薬、中薬、下薬に分類されている。
柴胡は上薬の部に『茈胡』の名で収載され、薬能は「心腹を主り、腸、胃中の結気、飲食積聚、寒熱邪気を除き、推陳致新(新陳代謝)を主る」と記されてる。
「神農本草経」の原本はあまりにも古くて残っておらず、長い間に渡って中国や日本で復元が試みられてきました。その復元本の中で、評価されている本が江戸時代後期の1854年(安政1年)に作られたとされる森立之(医師・漢学者)によるものです。森立之版は、序・上巻、中・下巻、攷異の3冊から構成されています。特に攷異は、後世になって再考された文面が追加されています。これが、現在残存する「神農本草経」となっています
神農(しんのう)は古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人で、人々に医療と農耕の術を教えたとい云われ、医薬と農業を司る神とされている。
下の写真が「神農本草経 攷異3巻」の原文(第1巻の柴胡の記述部分)です。
出典:国立国会図書館ホームページより
「神農本草経集注」(西暦500年頃)
古代中国の斉代の頃に陶弘景(とうこうけい)が著したとされる中医薬学(本草学)の書物で、掲載する生薬の数は、「神農本草経」の約2倍に増えている。
「神農本草経注」は「神農本草経」を底本にし、それに「名医別録」の365の薬品とその説を加え、合計730の薬品を収録して3巻に編纂している。
陶弘景は中国南北朝時代(500年代)の文人・医学者で、江蘇省句容県の出です。
中国では古くから柴胡は銀州産のものが最良品であるとされてきた。図経本草(宋代)に「銀州の物が勝る」と記載され,その付図から当時の銀州産柴胡がセリ科植物であった思われる。
「本草綱目」(西暦1578年)(李時珍)
中国明王朝の時代の1578年に李時珍(りじちん)が著した中医薬学(本草学)の基本書物が「本草網目」で、掲載する生薬の数は約1900種に増えている。
「本草綱目」は1590年代に中国・金陵(南京)で出版され、日本にも最初の出版から数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼし、「本草綱目」の和刻本も長期に亙って数多く出版され、漢方薬の基本文献として尊重されるとともに、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』など多くの注釈書が発行されている。
「本草綱目」の初版は出版地に因んで「金陵本」と呼ばれていて、完本は世界に7点しか残っていませんが、日本には国立国会図書館、東洋文庫、内閣文庫、東北大学狩野文庫と4点も存在します
なお、和刻本とは中国で出版された本を日本で彫りなおした出版物を云い、返り点や送り仮名等を付与したものもある。
李時珍は中国明時代の湖北省の医師で本草学者であり、多くの医学書を著している。李時珍は「本草綱目」の編纂するために約27年間の歳月をかけ、度重なる現地調査や標本採集などを行い、本書の編纂に並ならぬ心血を費やして完成させた。
「柴胡」は本草綱目には「茈は古の紫の字で、これはこの草の根が紫色だからで、今非常に良く用いられている茈胡がこれで、木をもって糸に代えそれをうけて茈胡と呼び慣わしている」「茈は山中に生じ、若いときは茹でて食用にし、老ゆれば採って柴とする。それゆえに地上部は芸蒿、山菜、茹草の名があり、根は柴胡と名づけられる」と記されている。
下の写真が「本草綱目」の原文(第13巻の柴胡の記述部分)です。
出典:国立国会図書館ホームページより
「大和本草」(1709年)(宝永7年)(貝原益軒)
「大和本草」は貝原益軒が編纂し、1709年(宝永7年)に刊行された本草書で、江戸時代中期にあって日本独自の本草書として纏められたものとしては最初のものです。
この書物は貝原益軒が「本草綱目」の分類方法を参考にして、独自の分類を考案し編纂・収載した品目は1362種に上り、本編16巻に「大和本草」としてまとめたもので、江戸時代の生物学書あるいは農学書としては最高の書物と云えます。
「大和本草」では漢名のない日本独自の品目も多数収載されている。また、図版を多く用いることや仮名が多く使われていることはそれ以前の本草書とは違うものであり、貝原益軒が学問を真に世の人の役に立つものにしたいという考えから編纂したためです。
貝原益軒は「大和本草」を編纂するに当たり、自ら観察・検証することを基本としたことにより、薬用植物(動物、鉱物も含む)以外にも、農産物や雑草も収載されている。柴胡については第6巻に記載されています。
貝原益軒は江戸時代前中期の本草学者であり儒学者で、筑前・福岡藩で生まれ、福岡藩黒田氏に仕え、若くして藩の命により京都、江戸、長崎などを巡り、見聞を広めた。儒学者であり、教育者でもある貝原益軒はいろいろな書物を記し、代表的なものとしては「養生訓」「大和本草」などがあります。
以下は大和本草第6巻の中にある「柴胡」に関する記述原文の写し(相模原柴胡の会の解読文)です。
下の写真が「大和本草」の原文(第6巻の柴胡の記述部分)です。
出典:国立国会図書館ホームページより
「用薬須知」(1726年)(享保11年)(松岡玄達)
「用薬須知」は稲生若水に師事して本草学を学び、本草学を究めた松岡玄達が述したもので、動植物の分類、形状、産出の状況、地域名などを記載して解説を行い、博物学的本草学の書として纏められています。本草書としては生薬の薬能や性状についての説明とともに、生薬の和名や地域名を挙げ、同じ生薬であっても産地別に解説されていて、生薬分類にそくした実証的な学問書となっています。
この用薬須知は松岡玄達が江戸幕府に招かれ薬物鑑定に従事した後の1726年(享保11年)に纏めたもので、江戸時代の代表的な本草書の一つです。
松岡玄達は江戸時代前中期の本草学者で、京都に生まれ、若くして儒学や東洋医学を学び、その後に稲生若水(いのうじゃくすい)に師事して本草学を学んだ。1721年(享保6年)には幕府に招かれて京都から江戸に移り、薬物鑑定に従事しています。
松岡玄達はまたの名を松岡恕庵(まつおかじょあん)と称し、その門下には多くの本草学者が育ち、小野蘭山(おのらんざん)や戸田旭山(きょくざん)などの江戸時代を代表する本草学者たちがいます。玄達の代表的な著作としては「用薬須知」「食療正要」などがあります。
以下は用薬須知巻2の中にある「柴胡」に関する記述原文の写し(相模原柴胡の会の解読文)です。
下の写真が「用薬須知」の原文(巻2の柴胡の記述部分)です。
出典:国立国会図書館ホームページより
「本草綱目啓蒙」(1805年)(文化2年)(小野蘭山)
小野蘭山が江戸での幕府医学館で「本草綱目」を元に講義を行った際に孫の小野職孝(もとたか)が筆記整理したものを蘭山自身が確認したうえで「本草綱目啓蒙」として48巻27冊にまとめたもので1805年(文化2年)に出版され、日本本草学の集大成とされる書物です。
「本草綱目啓蒙」は中国の本草学書「本草綱目」の訳述だけではなく、該当する和品の形状を詳しく述べ、また類似・関連する和品もできるだけ多く取り上げている。その際に本草綱目収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などを数多く挙げているのも大きな特色で、統一された和名の無い時代に間違った品を治療に使わないようにする為でもあった。
「本草綱目啓蒙」の初版の版木は1806年(文化3年)の江戸の大火で焼失したため、再版本が1829年(文政12年)に出版されていますが、この版木も1834年(天保5年)の大火により再び焼失してしまいました。その後、1847年に第四版となる、小野蘭山口授、小野職孝筆記の「重訂本草綱目啓蒙」48巻20冊がが出版されました。
小野蘭山は京都の出で、松岡玄達に本草を学び、私塾衆芳軒を開き、名声を得た。その後、江戸幕府に招かれて1799年(寛政11年)に江戸に移り、没するまで幕府医学館で講述を続けた。
柴胡については「本草綱目啓蒙」の巻9において「今は鎌倉より柴胡を出ざれもその初鎌倉より出せし故舊に仍て今も鎌倉柴胡稱す」と記している。
以下は本草綱目啓蒙第9巻の中にある「柴胡」に関する記述原文の写し(相模原柴胡の会の解読文)です。
下の写真が「本草綱目啓蒙」の原文(第9巻の柴胡の記述部分)です。
出典:国立国会図書館ホームページより
参考:漢方生薬「柴胡」
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相模原市での柴胡(ミシマサイコ 又の名は カマクラサイコ)に関する史料
「相模原市史 第一巻」第三章平安時代の相模原 柴胡の原(1964年)
本市域の中央に横たわる相模野は、古くより「柴胡の原」と呼ばれ、柴胡の名産地として朝廷へも貢納してきたという伝承がある。このことのもっとも根拠とすべき文献はといえば、延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の項よりないわけであるが、その相模国のところには柴胡の名は見えない。ただ新編相模風土記稿には、総説物産の部の柴胡の項に「大住郡東西田原村・足柄上郡虫沢・矢倉沢・三山竹三村・同下郡久野・底倉二村・高座郡亀井野村等に産せり。是を鎌倉柴胡といふ。また三浦郡城ケ島にも産せしことありと云ふ」とあって、相模からも産したことにはなっているが、それもだいたい南部に偏し、相模野からでたことにはなっていない。
相模野を柴胡の原と呼んだという諸例は、みな江戸時代の文化文政年代以降の幕末で、それ以前の文献はいまのところ見られない。想うに相模野を柴胡の原とよんだことは、比較的新しい時代、それも俳諧などに多く用いられたもので、古くはそうよんだことはなかったのではあるまいか。現在相模野からは柴胡を見つけだすことはきわめてまれで、採集することはほとんど困難な状態になっている。
転載:相模原市史 第一巻 第三章平安時代の相模原 より転載させて頂きました。
「相模原市史 第二巻」第二章近世中期の相模原 柴胡の原(1967年)
相模野台地の入会の萱場の中にいくらかの雑木は生えていたが、野火のために生長せず、燃料にするのがせいぜいであった。用材に供し得る山林は境川段丘と横山段丘付近のみであった。
この相模野入会の特産ともいわれそうなものに柴胡がある。古くから朝廷へも貢納して一名柴胡の原と呼ぱれたという伝承もある。しかし典拠ともすべき延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の相模国の項には柴胡の名は出ていない。
したがって貢納してきたという点については疑問はあるが、近世にいたっては一部農民がこれを採掘し、生活の資に供したことは事実のようである。
天保8年(1837年)の高橋道格の覚書にも、享保年中に原中に新開家が一軒出来、柴胡・前胡・半夏生などの薬草を採って生活していたが、特に柴胡は鎌倉柴胡と称して、この野に産したものはとりわけ性能がよく、唐の銀柴胡にも匹敵すべきものであった。毎年金拾両ばかりにもなると記している(上溝小山栄一家文書)。
また天保13年(1842年)下溝村鳥山大久保領名主十郎兵衛から道中奉行に願い出た甲州道中与瀬・小原両宿代加助郷免除願の中にも、下溝村は田方は天水場で地味が悪いので金肥を用いてもその効がなく、畑方もその丹誠にくらべてみのりはきわめて薄い。そこへもってきて諸役が多いので、夫食にも差支える始末、なお近年の飢饉では世間一統のこととはいいながら百姓の困窮は甚だしく、退転百姓もできて人少なのため荒地もできる状態である。
それらの困難を堪えしのぐため「夏は右様蚕仕り、冬は株野へ出で茅苅りいたし、女子どもは柴胡を掘り、御年貢または暮らし方の足し合いに仕り云々」(下溝福田為一郎家文書)とある。
その後文久2年(1861年)大島村以下六ヵ村の名主たちが、道中奉行あてに出した東海道戸塚・藤沢両宿助郷免除願にも、各村々の困窮状態を述べている中に、下壽村のところで、前文書とおなじく女子どもに柴胡掘りをさせて、貧窮生活の足し前にしていると述べている(藤沢佐藤条次家文書)。
これを立証するように下溝西堀の井上福三郎氏方にはいまに「せいこのみ」(柴湖のみ)を蔵している。全長84センチ・刃先20センチ・刃幅2.5センチで、山芋掘りののみと類似している。
以上により近世末期にこの地方では、冬季に相模野で柴胡を掘って生活の一助としたことは罹かであるが、その明確な生産高ははっきりしない。
天保14年(1843年)の「万相場割控覚帳」には柴胡の相場が出ている。
1 柴胡 壱貫五百目 壱斤銀壱匁かへ 代 六百七拾七文
1 さいこ 弐貫三百七拾目 壱斤八拾五文替 代八百三拾八文」   (大沼中里博家文書)
この漢字の「柴胡」と仮名書の「さいこ」との区別がいかなる差違を示すものか不明であり、また相模野の「柴胡」が実際に高橋道格覚書にある鎌倉柴胡であったかどうかということもいまとなっては不明である。
いずれにしろ現在開発し残された相模野の一部をたずねて見ても柴胡を採集することは困難な状態にあるため、その実態の検討はほとんど不可能に近い。
転載:相模原市史 第二巻 第二章近世中期の相模原 より転載させて頂きました。
参考:相模原市におけるミシマサイコ2 、  参考:相模原市におけるミシマサイコ4
「ミシマサイコ(三島柴胡)とは」「ミシマサイコ栽培方法」
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