相模野台地の入会の萱場の中にいくらかの雑木は生えていたが、野火のために生長せず、燃料にするのがせいぜいであった。用材に供し得る山林は境川段丘と横山段丘付近のみであった。 この相模野入会の特産ともいわれそうなものに柴胡がある。古くから朝廷へも貢納して一名柴胡の原と呼ぱれたという伝承もある。しかし典拠ともすべき延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の相模国の項には柴胡の名は出ていない。 したがって貢納してきたという点については疑問はあるが、近世にいたっては一部農民がこれを採掘し、生活の資に供したことは事実のようである。
天保8年(1837年)の高橋道格の覚書にも、享保年中に原中に新開家が一軒出来、柴胡・前胡・半夏生などの薬草を採って生活していたが、特に柴胡は鎌倉柴胡と称して、この野に産したものはとりわけ性能がよく、唐の銀柴胡にも匹敵すべきものであった。毎年金拾両ばかりにもなると記している(上溝小山栄一家文書)。 また天保13年(1842年)下溝村鳥山大久保領名主十郎兵衛から道中奉行に願い出た甲州道中与瀬・小原両宿代加助郷免除願の中にも、下溝村は田方は天水場で地味が悪いので金肥を用いてもその効がなく、畑方もその丹誠にくらべてみのりはきわめて薄い。そこへもってきて諸役が多いので、夫食にも差支える始末、なお近年の飢饉では世間一統のこととはいいながら百姓の困窮は甚だしく、退転百姓もできて人少なのため荒地もできる状態である。 それらの困難を堪えしのぐため「夏は右様蚕仕り、冬は株野へ出で茅苅りいたし、女子どもは柴胡を掘り、御年貢または暮らし方の足し合いに仕り云々」(下溝福田為一郎家文書)とある。 その後文久2年(1861年)大島村以下六ヵ村の名主たちが、道中奉行あてに出した東海道戸塚・藤沢両宿助郷免除願にも、各村々の困窮状態を述べている中に、下壽村のところで、前文書とおなじく女子どもに柴胡掘りをさせて、貧窮生活の足し前にしていると述べている(藤沢佐藤条次家文書)。 これを立証するように下溝西堀の井上福三郎氏方にはいまに「せいこのみ」(柴湖のみ)を蔵している。全長84センチ・刃先20センチ・刃幅2.5センチで、山芋掘りののみと類似している。 以上により近世末期にこの地方では、冬季に相模野で柴胡を掘って生活の一助としたことは罹かであるが、その明確な生産高ははっきりしない。 天保14年(1843年)の「万相場割控覚帳」には柴胡の相場が出ている。 1 柴胡 壱貫五百目 壱斤銀壱匁かへ 代 六百七拾七文 1 さいこ 弐貫三百七拾目 壱斤八拾五文替 代八百三拾八文」 (大沼中里博家文書) この漢字の「柴胡」と仮名書の「さいこ」との区別がいかなる差違を示すものか不明であり、また相模野の「柴胡」が実際に高橋道格覚書にある鎌倉柴胡であったかどうかということもいまとなっては不明である。 いずれにしろ現在開発し残された相模野の一部をたずねて見ても柴胡を採集することは困難な状態にあるため、その実態の検討はほとんど不可能に近い。 |